1961年頃の写真。
撮影場所は不明ながらも、おそらく昔の札幌修道院で写したものでしょう。中央に写っている人物は当時のフルダ管区本部の管区長なので、管区長視察の時の写真ではないか。
後方の一番上に位置する場所に写っているのはダビド・ミバク神父。その右隣がゼノ神父、二段目の左がエマヌエル・ゼントグラフ神父、その右がドイツ・フルダの管区長、その右はブライトン神父。三段目の左からハインリッヒ修道士(当時)、ウルバン・サワビエ神父、ジジモ・ヨルダン神父、ドミニコ・バウアー神父。
ウルバン神父の来日は1961年8月、そして、ダビド・ミバク神父の帰天が1962年4月なので、この間のどこかで撮られた写真と言うことになる。
この頃、日本でもカトリックの教勢が伸び、この写真の撮られた2年ほど前には北26条教会の献堂式があった。信仰年は第二ヴァチカン公会議開催50周年を記念しているが、この写真はおそらく第二ヴァチカン公会議が開催されていた頃だろう。世界の教会が大きく変わろうとしている時に撮られた一枚である。
1970年5月13日の写真。
修道士さんのパウロさん、アントニオさん、ピオさん、トマさんの初誓願とゼノ神父さんの金祝の写真だそうです。そこから日にちを割り出すと、1970年5月13日に旧修道院聖堂にて写した写真になります。北11条教会の75周年誌年表によれば、1970年7月に新聖堂建設に向けて着工していますから、旧修道院聖堂が取り壊される少し前に撮った写真と言うことになります。
下から二列目の中央に十字架を持っているのがゼノ・フレック神父。その左隣の白いひげの方はジシモ・ヨルダン神父。一番下の列の左からピオさん、トマさん、アントニオさん、パウロさん。
パウロさんの右斜め上に当時北11条教会主任司祭だった佐藤敬一神父(後に新潟教区司教)が映っている。
写真後方の左手に聖アントニオのご像が映っているが、その下に映っている若いドイツ人の司祭が来日3年目ぐらいのマンフレッド神父。古い修道院や聖堂が取り壊され、新しくなる直前の写真であり、また戦前からいる兄弟たちと、戦後新たに来日したり入会した兄弟たちが一緒に映っていて、時代の交代を感じさせる一枚です。
1975年頃 旭川神居修道院にて撮影
前列で座っている兄弟の左から、渡辺神父、竹本神父、竹本神父のやや左後方には長尾神父。長尾神父の左にはテオドール神父、右にはアントニオ山岸修道士が写っています。竹本神父の右に首を出しているのはマルコ松田修道士、その後ろにダミアノ神父が写っています。再び前列に戻って、松田修道士の右にハインリッヒ修道士(当時)、ウルバン神父、続橋神父、中村神父、秋元神父、青木神父、長谷川神父、マツッチ神父。秋元神父の右斜め後ろには武宮雷吾神父も写っている。武宮神父の左は浅井神父、その左はゼノ神父、コンラード修道士、ヴィアーレ神父と続く。ヴィアーレ神父の後ろにはカリシモ神父、その左はローター神父、ローター神父の後ろには光明社のパウロ森繁修道士、その左はルドビコ修道士。パウロ森繁修道士の右はマンフレード神父、その右はドミニコ神父、ドミニコ神父の右やや下にルカ・ベルトラム神父、その右上はルカ・ボナヴィゴ神父、右下は山野井神父、その右にルペルト神父、右下はチト小川神父、右上にトヌッティー神父、その右はニコラオ神父、続いて谷津神父、ナルチゾ神父、鈴木宗太郎神父となります。
中村神父が叙階されたのが1975年で、翌年叙階された山本孝神父が写っていないので、おそらく1975年に神居の修道院で撮られたものだろう。
1970年にコンスタンチン・コーゼル総長のイニシアチブにより、日本管区設立の動きが具体化して行き、そのためにカリスト・スイニー神父が日本における総長代理に任命されました。そして日本管区設立に向けた準備段階として1971年フランシスコ会日本連合が結成されます。連合は日本管区設立の1977年までの6年間存在していたので、1975年のこの写真は連合時代の写真と言うことになります。
この時代、日本人の神学生はピークを迎え、瀬田の神学校はほぼ満員状態。そこから次々に日本人の新司祭が誕生して行きました。連合時代は各地区の宣教師が所属する外国の管区にそれぞれの日本人の会員も所属していたので、神学校を卒業すると出身の管区が担当する地区へと戻っていったのです。中村神父は福岡出身ですが、福岡の高宮修道院は北海道と同じドイツのフルダ管区所属だったので、中村師も新司祭として北海道へ派遣されたのでしょう。
なお、1975年当時の連合会長は後に初代日本管区長に就任する佐藤敬一神父(当時)でした。
第一回管区会議の時の写真。フランシスコ会日本管区設立の瞬間を切り取った貴重な一枚。1977年12月16日。
日本のフランシスコ会は、多い時には14ぐらいの外国の管区が、それぞれ日本の各地に宣教地をもらって日本に宣教師を派遣していました。1971年、日本の12の宣教地区を統合した日本管区設立に向け連合が設立されました。その後、日本管区設立に向けて準備を進め、先に準備の出来た9つの地区で1977年12月16日日本管区は日本の殉教者を保護としフランシスコ会日本聖殉教者管区として設立されました。その時の第一回管区会議の記念写真。下段中央の大柄な日本人は、この時、選出された佐藤敬一初代管区長。北11条教会の主任司祭でした。右隣のアメリカ人はカリスト・スイニー神父。その右は戸田三千雄神父、その右は山辺剛神父。佐藤管区長の左隣はリノ・ミケレッティ神父、その左はタルチシオ・マリオ・カンドゥッチ神父。おそらく、この前列が第一回管区会議で選出された管区理事たちでしょう。
撮影場所は六本木の聖ヨゼフ修道院。ここが長らく管区本部となってゆきます。
なお、その後、順次日本管区に残りの地区が入り、1985年 最後に旭川地区が日本管区に入ることで、日本全土は日本管区に統合されました。
日本管区設立は、日本各地に教会を作りそれを司牧する小教区司牧を中心とした宣教から、宣教地(日本)に本会の修道生活(霊性)を植え付ける方向への転換として(日本のフランシスコ会再宣教100周年:カリスト・スイニー著)画期的な出来事でした。
写真にあるように1985年11月19日に旭川神居の聖堂で写した写真。当時ドイツ・フルダ管区の分管区だった旭川地区が日本管区へ移籍した時の記念写真でしょう。
最前列の中央、赤い絨毯の上に写っている二人が両方の管区長。左のドイツ人がフルダ管区の管区長シルベルト・メイヒェル。その右は当時の本田哲郎管区長。写真には、旭川地区だけではなく、当時北海道で働いていたフランシスコ会の兄弟たちが写っています。ゲレオン神父さんやシュヌーセンベルク神父さんなど本州で働いている神父さんも写っていますが、その方々を除いても、この写真には約40名ほどの兄弟達が北海道で働いていたようすが映し出されています。現在の二倍を超える人数です。
旭川地区が日本管区に参加することで、日本管区は名実共に日本管区として出発することになります。
第一回札幌修道院会議(北海道ブロック)の写真。場所は花川マリア院の聖堂。1999年1月22日。
日本管区設立後も各地区の独立性は強く残り、会計と人事権は地区が持っていました。そのような中で、第4代管区長の前川登管区長は、地区を超えたブロック制度を作ります。このことで、全国に六つのブロック(北海道ブロック、東京ブロック、北関東ブロック、中部信越ブロック、関西ブロック、九州ブロック)が設置されました。北海道の修道院も札幌、旭川、釧路の各修道院が独立していましたが、札幌修道院を母院とした北海道ブロックに編成されています。この記念写真は、札幌修道院が母院となり、北海道の兄弟達が一同に会して開かれた最初の修道院会議の写真です。
下段中央、座って緑のストラをしているのが前川管区長。その左隣が北海道ブロックの修道院長に就任した青木神父。
地区を超えて日本管区が一つとなるための試行錯誤をしている時代でした。
写真にあるように、フランシスコ会再宣教100周年記念写真。2007年10月6日。
二十六聖人の聖ペトロ・バプチスタ神父が1593年に来日し、日本でのフランシスコ会の宣教は始まりました。その後、厳しい迫害と潜伏の時代を経て、1907年にヴェンセスラウス・キノルド師とモーリス・ベルタン師の二人のフランシスコ会士が再来日し札幌を拠点として宣教を再開しました。この再宣教100年記念のミサの写真。
中央の車椅子のブラザーがピオ武井修道士。その上に映っているのが地主司教様。ピオさんの左に当時の管区長の湯澤民夫神父が映っています。
この時代、ブロック制度は、地区の交流と言う当初の目的を達成し、発展的に解消して、北海道は再び札幌、釧路、旭川の三つの修道院が独立する形に戻りました。しかし、会計が管区で一本化され、地区内の人事権も管区長が持つことになり、年二回開催される管区評議会で日本管区の課題を話し合うことになりました。ブロックによる地区の枠を超えることから、ブロックと言う地域性を越えて日本管区を形作る段階に入ったのかも知れません。